フーピンホテル
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ペルセポリスから北西6km、ナクシェ・ラジャブから少し車を走らせた場所にナクシェ・ロスタムはあります。ここにはペルシア王のお墓が4基(ダレイオス一世、クセルクセス一世、アルタクセルクセス一世、ダレイオス二世)並んでいます。中央はクセルクセス一世とダリウス一世のお墓で、その下には当時の王たちの偉業がレリーフとして残されています。シャープール一世の226年戦勝記念図は七万人の捕虜と共に連れてこられたローマ帝国皇帝バレリウス一世がシャープール一世に跪いている場面が描かれています。これはペルシア帝国が世界制覇したことを象徴しています。アルデシール一世の王冠を受ける図では王様は髪を長くのばしていたことが、騎馬戦勝図では馬にも甲冑がつけられていたことがわかります。王の玉座をたくさんの民で支える図やゾロアスター教最高神アフラ・マズダのレリーフもきれいに残っています。そしてまたお墓の向かいに、ゾロアスター教の神殿が残されています。
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ペルセポリスから北西に5km、少し車を走らせたところに、かつてラジャブさんのチャイハネだったところにナクシェ・ラジャブはあります。ナクシェ・ラジャブとはラジャブのレリーフとか壁画という意味で、そこにはササン朝時代のレリーフが岩壁を飾っています。アルデシール一世の戴冠図では、神がざくろの木の杖を持って王冠をアルデシール一世に渡しています。後ろにひかえているのは高官とゾロアスター教の最高指導者、そしてなぜか離れたところにお妃が描かれています。シャープール一世の戴冠図はシャープール一世(右)が馬に乗って、まさに王冠(王権)を受け取ろうとしているところが描かれています。シャープール一世のローマ遠征図は六人の将軍と共に描かれています。ここには古代ペルシア語で右から左にシャープール一世の偉業が書かれているのを見ることができます。
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パサルガダエとはファールス(ペルシアの語源)の地という意味を持つキュロス大王が建国したアケメネス朝の首都の遺跡です。ペルセポリスに比べると残っている遺跡はわずかですが、イラン建国の父とされているキュロス大王が残した遺跡はその偉業から世界遺産になっています。ダレイオス一世の時代になると、都の機能はペルセポリスへと移ってしまいましたが、歴史的意義の大変深い場所だという事実は変わることありませんでした。その後もずっと歴代の王が戴冠式を行う場所でした。人の足が写っている画像で、魚尾のようなズボンを履いている人の足を見ることが出来ますが、これはパンツを発明した民族であるメディア人のものです。騎馬民族らしい発明品です。すその長い着物にサンダル姿はペルシア人です。
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自ら戦争をしかけることなく当時の世界で一番大きな帝国(ペルシャ帝国)を造りあげたキュロス大王は支配下においた他民族の人権を重んじ各民族の宗教を認め崇めたことから他国民からも“偉大な”と称えられました。王自ら戦いに参加したことから兵士の人望も厚く、士気も高かったのですが、東方遠征後まもなく今のパキスタンで亡くなりました。亡くなった所からこちらに運ばれたという報告は不明で、アレキサンダー大王がこの地に来た時には王墓は空だったといいます。キュロス大王の石棺が収められていた墓は7層になっています。これは天国までの階段を現しています。ユネスコがここを世界遺産にした所以は人権を大切にし、グローバリズム化を図ったキュロス大王だったからだといいます。
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紀元前3世紀ごろ、パルティアはセレウコス朝を倒し、イラン高原を支配しました。紀元前247から226年の約500年間イラン東部から中央アジア一部を国土としたパルティア王国の都ニサの遺跡発掘は春と秋にイタリアとロシアの隊が行っていますが、現在の時点でまだ30%ぐらいなのだそうです。ニケ以外でわかっている2つの都市でイラクのクテシホンともうひとつヘカトンペロスは未発見のままです。ギリシアのヘレニズム文化を愛し、東西交易を行い、シルクロードを通じた世界でもその名が知られました。アルサケス朝パルティアの名前は中国の史料にも安息国として記載されています。画像はこれから発掘される部分とブドウ酒を流した管の一部です。
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ニサは紀元前247から226年の約500年間イラン東部から中央アジア一部を国土としたパルティア王国の都です。アシュハバードの西約15km、コペトダグ山脈をのぞむ荒野にぽつんと存在しています。古代の巨大な帝国であり、ローマ帝国と8回にもわたり戦争を闘ってきた歴史を持っています。ローマは戦争に負けていないのに戦闘に負けたと言わしめた騎馬民族独特の戦法であったパルティアンショット(馬上で振り向きざまいきなり矢を放つ)は捨てゼリフという言葉で残っています。画像はオールドニサと呼ばれる部分で、王族や二千人ほどのその一族と召使が住んでいたぶぶんです。内側が広く外が狭い窓は内側から矢を放ちやすく外からは攻撃しにくい造りになっています。
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スルタン・サンジャール廟は1157年に亡くなったセルジュク朝トルコ最後の王様スルタン・サンジャールの廟です。セルジュク朝はある時代中央アジアからイラン、シリアにいたる広大な地域を支配したトルコ系の王朝でした。建物の高さは38m、正方形の建物の一辺は22mあります。青いタイルでおおわれ、メルブに向かう人は1日前からこの建物が見えました。壁の厚さが5m以上もあったためさすがのモンゴル軍も破壊できませんでした。ただ遺体がモンゴル軍来襲を避けるためにどこかへ隠されたまま不明になってしまいました。廟の天井には小さな天窓が開けられています。これは鳥になって去っていってしまった妃に会えるようにと作られたという伝説が残っています。
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日本から中国、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタンとそれぞれ国境を陸路で越えてきましたが、ウズベキスタンからトルクメニスタンを越える国境はこれまでの中でもかなり過酷な国境越えでした。かかった時間(6時間)も最高ならば待たされた場所の気温(48度)も最高でした。トルクメニスタンは国土の80%がカラクム砂漠(黒い砂漠という意味)で天然ガスと石油などの資源が豊富な国です。そのため国は大変潤っており、例えば電気・ガス・水・塩・衛星450チャンネル、教育費は無料、軽油がただに近い値段であるなどさまざまな分野において国民はその利益を享受しています。カラクム砂漠には砂漠の動物たちが生息し、アラブから鷹狩りをしにくる人たちもいるそうです。今でも砂漠で遊牧生活を送る民族がいて、その人たちは客を天からの贈り物として歓待してくれるのだと聞きました。太陽が沈みゆく砂漠をみわたしてみましたが、遊牧民の方々どころか動くものひとつ見つかりませんでした。
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カラーン・ミナレットのカラーンは素晴らしいという意味持ち、文字通りブハラを代表するミナレットです。ミナレットは1123年にレンガの組み方だけで模様を造った48mものミナレットです。ミナレットには当時複数の目的がありました。アザーンという礼拝の呼びかけ、旅をする人のための灯台の役割、そして処刑台の役割。イスラムの法律では女性は斬首することができなかったので、女性が罪をおかした際にはミナレットからつきおとされることがありました。このミナレットは東からやってくると2日前から塔が見えたといいます。チンギスカンも壊すことができなかったミナレットですが、1920年にソビエト赤軍の空爆で一部破壊されてしまいました。
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