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2006/09/14

申報館

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かつて上海市の南京東路から福州路にいたる山東中路は望平街と呼ばれ、上海の新聞業の中心地でした。
辛亥革命から1940年代、望平街とその周辺には新聞社が林立し、毎朝毎晩大小新聞売りが忙しく新聞を運び出す風景が見られました。 現在かつて新聞社だった建物はどんどん取り壊されたり建てかえられたりしています。しかし、申報館と新聞館の建物はその姿を今も見ることができます。
『申報』の上海における歴史は長く、出版期間が最も長かった中文日刊新聞です。 設立者は茶商から転業したイギリス人のメジャー兄弟です。同治11年(1872年)4月30日に『申報』は創刊されました。 隔日刊として始まり、ほどなく日刊新聞となります。 新聞社はもとは山東路197号にありましたが、1882年に漢口路の礼拝堂の向かいへと引越しました。 三度目の社主である史量才に1912年に経営が引き継がれてから、飛躍的な改革が行なわれました。日本から購入した印刷機で一時間に5000~6000部の新聞が刷れるようになりました。もともと二階建てだった社屋は1916年から1918年にかけて五階建てのビルに建てかえられました。印刷機はアメリカ製へと買い換えられ、20年代には5万部の発行部数を一時間で刷り上げるまでになっていました。 史量才は『申報』の内容に対しても絶えず改善して、政治的ニュースを強化していきました。そして絶えず新しいコラムも増やしてゆきました。そのため『申報』の販売部数は急速に伸びました。1912年には一日の販売数は7000部、1925年には10万部、1928年には14.3万部に達しています。 9.18事変後、宋慶齢、蔡元培、楊杏佛らが発起した“中国民権保障同盟”の報道を積極的に行なっていました。 1932年、フランス留学帰りの黎烈文に文芸欄《自由談》の編集を任せ、魯迅、茅盾、巴金、鄭振鐸、陳望道、瞿秋白、葉聖陶、郁達夫などの進歩的な作家に原稿を依頼したことから知識人たちから深く受け入れられるようになります。上海市民に対する影響も大きくなりました。
1949(民国38)年5月27日に停刊してしまいますが、建物は解放日報社が使用して、今でも新聞が運び出されています。

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